今年は中森明菜のデビュー40周年にあたるという。
ネットニュースも含め結構世間が騒がしい。
もちろんレコード会社は記念商品を発売するし
https://sp.wmg.jp/
NHKは『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』を
BSプレミアム含め、好評だったせいで再放送までした。
またしばらく表舞台から遠ざかっていた本人が
今年の夏に新事務所を立ち上げて、
再始動するとツイッターしたことから
年末の紅白候補になっているんじゃないかとか言われている。
私は格別なファンというわけでもないので
このように他の歌手やアーティストとは違う
「40周年」
私が興味あったのは、この本だ。
2019年から夕刊フジに「歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡」
という連載を続けているジャーナリストの渡辺裕二氏が10月に出版した
「
https://shinsho.mdn.co.jp/
1982年5月のデビューから7年間、
つまり80年代の明菜にフォーカスした内容になっている。
40周年記念というよりも80年代にヒット曲を連発し
アイドル華やかな中で異彩を放っていた中森明菜という歌手の実像
主にレコード会社のスタッフの視点から取材して記述している。
本の中頃から登場してくる担当プロデューサー藤倉克己さんは
彼が洋楽時代からの私の古い友人で、同郷でもある。
このブログで「
洋楽を楽しげに語って紹介する好々爺のような人だから、
80年代を代表する歌姫と火花散らしながらヒット曲を生んだディレクターと
同一人物だったとはちょっと想像しにくいのだが紛れもなく本人だ。
藤倉さんはワーナー・パイオニア時代、ある日突然の人事異動によって
ヴァン・ヘイレン、フリートウッド・マックなどの洋楽担当から
すでに大スターだった中森明菜の担当ディレクターになった。
それは「飾りじゃないのよ涙は」に参加した時に始まり
「ミ・アモーレ」(1985年3月)から「水に差した花」(
まさに中森明菜の絶頂期の時期だった。
この間「ミ・アモーレ」「DESIRE」
コンセプトアルバム「不思議」、全編英語のアルバム「Cross My Palm」、
竹内まりあ作「駅」の解釈事件、ピークだったと言われている「
チャートNO1の多くのヒット作品、話題作を制作し世に送り出した藤倉さんは
芸能界のレジェンドの一人に数えられるべき人なのだ。
が、私たちはよく知っているのだが、
「本当は語りたくない」「
それが藤倉さんの美学だから夕刊フジとこの本での証言は非常に貴
シングル盤の選曲や制作裏話などで私らがイメージしている
歌姫とは異なる真実の中森明菜の姿を藤倉さんは語る。
「激しい性格」「完全主義者」などという外の評価はよく聞く中で
藤倉さんは上から目線の発言をしない。
中森明菜を「中低音の魅力は言葉では表わせない」
「表現の仕方にこだわる情念の歌い手」だと言う。
彼女の表現者としての才能に対する尊敬の念さえ感じる。
アイドルがアーティストとして脱皮していく過程で
藤倉さんと明菜には音楽人としての相互の純粋なリスペクトがあったのだと思う。
それが他のアイドルの「スタッフ」と「タレント」
違うところだったんじゃないだろうか。
それはもしかすると洋楽人藤倉さんのスタンスだったのかもしれな
しつこいようだが、今も新しい洋楽のヒット曲を聴いて
「
伝説になった歌姫のディレクターが同一人物と
でも高齢になっても芸能界に居残っている人達と違って、
今日は中森明菜の「赤い鳥逃げた」(1985年5月)を聴きたい。
12インチシングルで発売されたこの曲は「ミ・アモーレ」
タイトルも歌詞もアレンジも異なるこの曲が、
色々あってこれが「ミ・アモーレ」
ラテンのアレンジに、まったく別の歌詞でこっちも完成している。
https://www.youtube.com/watch?
追記;この本の主役はいわば中森明菜のプロジェクトを引っ張る
総合プロデューサーともいうべき寺田章(仮名)さんだ。
誰のことなのか業界の人ならばすぐにわかるこの寺田さんの
強力なリーダーシップの下で藤倉さんは躍動したといえる。
すごい人たちがいた80年代だ。