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Channel: レッツゴー!元日本洋楽研究会
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半分歌謡曲、半分オールディーズ

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私の知りあいの生粋の洋楽ファンは

「幼い頃からFENを聴いていた」とか

ビートルズ、ビーチボーイズ、60年代末のアメリカンロックが命」とか

ほとんど洋楽博士のような人が多い。

 

そういう人と比べると私の洋楽知識は足元にも及ばない。

物心ついた小学生から大学卒業するまで

洋楽と歌謡曲を並べて聴いていたから

私の音楽歴の半分は歌謡曲が占めている。

会社で洋楽から邦楽に人事異動になって定年までの18年間

邦楽で働けたのも「半分歌謡曲」の私だったからと思う。

 

最も古い記憶は

1958年、小学4年生の時の平尾昌晃の「監獄ロック」と

「星はなんでも知っている」だった。

片や洋楽の日本語カバーで、もう一曲は完全に歌謡曲、

両方ともにハマった。

中1あたりからは漣健児ワールドにどっぷり浸かり

中2の頃はヘレン・シャピロやコニー・フランシス、

デル・シャノンやジーン・ピットニーも聴いたが

好きなのは断然弘田三枝子であり飯田久彦だった。

 

「おお!キャロル」「カレンダー・ガール」「すてきな16才」「悲しき慕情」

「恋の片道切符」「悲しきクラウン」「小さい悪魔」「恋の日記」

小学校高学年から中学生になっていった私は

日本語詞と一緒に入ってきたこういう曲の次にそのオリジナルを聴くようになった。

歌っているのは「ニール・セダカ」という歌手だった。

洋楽というのは日本語ポップスか、映画の洋画を通過してのものだった。

 

 

 

中3終わりの1964年新年にビートルズがデビューした。

すぐにシングル盤を買った。

 

 

この頃の歌謡界は御三家を中心にした青春歌謡が真っ盛りで

毎週日曜日の「ロッテ歌のアルバム」が楽しみだった。

1965年、高2の時はフランス・ギャルにイレこみ

翌年の来日公演を観に東京まできたのが

私にとって初めての外タレになった。

 

 

大学入試に失敗した1967年はグループサウンズの始まった年で

日劇ウェスタンカーニバルで見たザ・タイガースにショックを受け

この体験がその後の人生に大きな影響を与えることになる。

1969年あたりからが忙しい。

レッド・ツェッペリンがシカゴ・トランジットオーソリティがデビューし、

藤圭子がデビューする。

1971年、シカゴが来日し、ピンク・フロイドの箱根アフロディーテがあり、

レッド・ツェッペリンが来日し、天地真理がデビューする。

私は1972年にCBSソニーに入社して洋楽部に配属される。

 

当時、デイブ・クラーク・ファイブ、フランス・ギャル、シカゴ、ツェッペリン、

沢田研二、藤圭子、天地真理などが私の雑多なフェバリットだった、ということは

このあたりが生粋洋楽ファンの「幼い頃からFENを聴いていた」と違うところだ。

地方在住という環境と小中学校のクラスに世の中のヒット曲など

語れる友だちがいなかったのも理由だったと思われる。

逆に言えば後に「日本のみのヒット曲」を目指したベースには

こういう刷り込まれたルーツがある。

 

先月の入院中に聴いていたのは

ポール・アンカとかニール・セダカとかデル・シャノンとか

コニー・フランシスとかの「オールディーズ」と「日本語ポップス」

それと舟木一夫、西郷輝彦、三田明などの「青春歌謡」だった。

そんな中から1曲づつ

「花咲く街角」坂本九(1962年)

日本詞はもちろん漣健児、オリジナルはデル・シャノン

 

https://www.youtube.com/watch?v=2I7_tVYmGqY

 

「恋のアメリアッチ」三田明(1966年)

この人は橋幸夫と声が似てるのに加えて

そもそもこの曲は橋幸夫の「恋と涙の太陽」と曲も似ている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=B72_MMzDqUs

 

田舎の少年時代に好んで聴いていた音楽が

退屈な病院生活を和ませてくれた。

ああいう隔離されての陰鬱な状況で和むのは

仕事でかかわったエアロスミスやクラッシュではなかったのだ。


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