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Channel: レッツゴー!元日本洋楽研究会
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モット・ザ・フープルとクラッシュとエレン・フォーリーの縁

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洋楽ディレクター時代に担当した100以上のアーティストの中で

一番最初がモット・ザ・フープルで最後がザ・クラッシュだった。

意識したわけではなく偶然なんだけど

後から考えればそれは必然だったように思える。

 

 

この2つのバンドをつなぐ人物が2人いる。

一人はプロデューサーのガイ・スティーヴンス

「モット・ザ・フープル」の初期のプロデューサーで

そもそもこのバンドの名付け親もこの人。

クラッシュでは「ロンドン・コーリング」のプロデューサーだ。

 

奇人というより狂気のプロデューサーとして有名だが

この人がいなければモットもロンドン・コーリングも

この世には存在していない。

1981年8月死去。

 

 

もう一人はエレン・フォーリー、1951年6月5日生まれ。

歌手で女優。

 

 

ミートローフのモンスターアルバム「地獄のロックライダー」に

参加したことで認められソロデビュー、3枚のアルバムを発売。

映画は「トッツィ」「危険な情事」「カクテル」など。

 

彼女はガイ・スティーヴンスとは逆で

イアン・ハンター、ミック・ロンソン、ミック・ジョーンズ他から

サポートをもらって自分のアルバムを制作している。

 

(すごい顔ぶれ)

 

1979年のデビューアルバム「ナイトアウト」のプロデュースは

イアン・ハンターとミック・ロンソン。

参加ミュージシャンはイアン・ハンターのバンド。

 

 

2枚めの1981年「悲しみシアター」はクラッシュの全面的バックアップ、

プロデューサーはミック・ジョーンズ。

 

 

その直前にはクラッシュの「サンディニスタ」に参加して

「ヒッツヴィルU.K.」「コーナーソウル」を歌っている。

その頃からミック・ジョーンズと恋仲になったらしい。

 

 

その彼女が1980年にプロモーション来日している。

私がクラッシュ「16トンズ・ツアー」に行き

客席の一番前でミックの靴を触って来た話なんて

キャッキャ言いながら喜んで聞いていた。

私のジョンソンズの裏地真っ赤な黒のコートを

「着せて」と着ていた。

 

と、ここまで書いてきてふと思い出した。

(これって、前に書いたことあるぞ、、、)

で、探してみたらあった、2006年に書いていた。

やばい。

40年前のことは覚えているのに13年前のことは忘れている。

レミニセンス・バンプだ!!

 

そのブログ

https://ameblo.jp/shachorirekisho/entry-10196760562.html  

 

来日中のエレン・フォーリーとの記念写真。

顔の大きさが激しく違う。

 

 

今日は2曲、エレン・フォーリーの

「ウィ・ビロング・トゥ・ザ・ナイト」

https://www.youtube.com/watch?v=VYYMewGadm8  

 

そして、クラッシュが亡きガイ・スティーヴンスに捧げた

「ミッドナイト・トゥ・スティーヴンス」 

  ボックスセット・アルバム「クラッシュ・オン・ブロードウェイ」(1991年) 

で聴くことができる 

https://www.youtube.com/watch?v=tjy8UhaqI0E  

 

 


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