彼が四万十の野中家にとって
反逆児だったのか希望の星だったのかそれはわからない。
が、先祖たちが長年必死にしがみつき守ってきた土地を
祖父がアッサリ飛び出したことは戸籍上も間違いない。
しかも出るも出たり横浜正金銀行という銀行に勤めた祖父は
第一次大戦後のドイツが撤退した中国青島に赴任した。
1915年(大正4年)から1931年(昭和6年)の満州事変の後まで
16~7年間を現地で勤務し、40代の終わりに内地に戻り、
高知市朝倉にあった陸軍歩兵第44連隊裏に居を構えたという。
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この日私たちは自分たちの本籍を訪ねることにした。
前日行ったのは先祖代々の土地。
行くのはそこから裏山を一つ越した
祖父が高知から移り住んだ土地だ。
雑草が生い茂りヘビでも出そうな農道のデッドエンド。
猪対策の柵の向こう、今は田んぼとなっているそこからが
兄と私と妹のかつて本籍地だった場所。
「すげーとこだなあ」
「自分ちに戻らずになんでこんな所に引っ越してきたのかなあ」
「あっちを処分して来たんじゃない?」
「でもなんで?」「わからん」
帰り道で農作業中のおばあちゃんに兄が声をかける。
「こんにちわ、おばあちゃん。
50年位前までこの奥にいた野中って覚えていませんか?」
「はいはい。野中のおじいちゃん、よーく覚えてますよ」
いきなりいた!89才の証言。
「そう、お孫さんたちが群馬と東京からわざわざ。
そう言われてみれば目元なんて似てるかもねえ。
大きなお家を建てられてね。池の上に橋をかけて机を置いて
そこで夕飯をごちそうになったり
おじいちゃんには私はずいぶん可愛がってもらいました。
戦後すぐに入植されてねえ、綺麗な田を作られてましたよ。
子どもだった私も田植えを手伝ったの」
一瞬私は耳を疑った。
戦後?入植?!え?
慌ててメモをめくる。
1947年、祖父63才。
還暦過ぎた元銀行員が老夫婦隠遁の地として選ぶには
あまりに厳しすぎる環境の新田開拓民となってここに入植していた。
なんという爺ちゃんだ!
「最初3軒の家が入植したんですよ。すぐに2軒がやめなさって、
野中のおじいちゃんだけが頑張りました」
結果が出るまでに数年かかるとすればそれは70才過ぎだったか、
先祖代々の地を捨て勇躍中国の青島に渡ったことが
祖父の人生最大の冒険だったと、この旅まで私は思っていたが
63才で新田開拓に従事した勇気と決断と行動力。
自分の身内ながらそれって正直カッコイイと思う。
「おばあちゃんが亡くなって体を壊されてからは
一斗俵の方のお家でお世話になっていました」
全員感動して話を聞いて最後はその一斗俵に向かう。
四万十川に現存する最も古い一斗俵沈下橋。
1974年に90才の生涯を終えた祖父終焉の地は
この観光写真の奥に写る家の路地裏にあった。
すっかり廃屋だった。
「ここは2回目なんだけど覚えていないね」
みんな43年前に葬儀で来ている。そして忘れている。
お墓は前橋に移してあるので手を合わせるでもなく、
ただ「じいちゃん、思ってたよりずっとカッコイイわ~」と
心の中でつぶやいたものだ。