3月15日、元マガジンハウスの吉田弘さんが亡くなった。
通院中の私は葬儀への参列が許されなかった。
昭和18年生まれというから享年76。
私たちにとって「ひろしさん」と言えば吉田弘さんのことで
マガジンハウスが平凡出版だった時代に
「平凡パンチ」を皮切りに「anan」
60~70年代の若者文化を作ったレジェンド編集者のお一人だった。
今野雄二さんと同期入社だったとは後で聞いた。
初めてお会いしたのは1972年か3年、
既に流行発信のど真ん中にいたひろしさんは
都会派で細身のビジュアルもカッコよかった。
駆け出しの私にとっては雲の上の人なのに
他のマスコミのエライさんのように偉ぶるところがなく
優しく丁寧に接してくれるものだから
(一流の人物ってやっぱり違うんだなあ)と思っていた。
子役時代は映画に出ていて平凡パンチ時代はモデルもやり
TBSテレビの「ヤング720」にも出ていた。
青山学院の学生時代は陸上競技部で
「100mのベストは10秒7、飯島には勝てなかった」
「関東インカレの走り幅跳びは7m36cmで3位」
そして「区間ビリだったけど箱根駅伝の7区を走った」
まったく何から何までヒーローじゃん。
長年存じ上げていたのが更に親しくさせてもらったのは
私の定年間際に「会わせたい人がいる」と
その頃講師を勤めていた産業能率大学の
松尾教授を紹介してくれたのがキッカケで
以来毎年数回飲むようになっていた。
50年代からのビルボードHot100のシングル盤を
ほとんど全部コレクションし
それをジョギングのBGMに使っていると話していた。
「この歳になってもいつかアメリカ大陸を走りたいんだ」
という夢は叶わないままになってしまったけれど
そんな飲み会の話からFM Cocoloの「パイレーツ・ロック」にも
2回出演してもらった。
このブログを見返してみてもひろしさんとの写真は多い。
つき合いが懐かしいだけじゃなく現在進行系でもあったから
今回の訃報には特に大きな衝撃を受けている私だ。
それなのに通夜にも告別式にも参列できなかったので
今日はせめてその写真を見ながら感謝を込めて追悼したい。
BGMはひろしさんが好きだったロッド・スチュワートで。
「スティル・ラヴ・ユー」(1975)
https://www.youtube.com/watch?
こんな言い方は顰蹙買うだろうけど、
本当に雲の上に行ってしまったひろしさん、
50年近くものおつきあい、有難うございました。