Quantcast
Channel: レッツゴー!元日本洋楽研究会
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2743

1971年レッド・ツェッペリン初来日

$
0
0

シンコー・ミュージックから9月に

「レッド・ツェッペリン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン1971&1972」

が発売された。

 

https://www.shinko-music.co.jp/item/pid1648102/    

 

1971年と1972年の来日時に撮影された長谷部さん他の

シンコーミュージック所有のありったけの写真を使い切りました

・・みたいな感じのムック、らしい。

表紙のあまりのカッコよさに

増税前のAmazonで買おうと一瞬思ったがやめた。

3200円+税。

飲み代は5000円でも6000円でもすぐに出すくせに

本は3000円を超えると二の足を踏んでしまう私だ。

 

2年ともライヴは見に行ってるしLPもあるから、まあいっかと。

 

 

初演の1971年、昭和46年。

この年は外タレの来日ラッシュが始まった年だった。

全部初来日。  

2月ブラッド・スウェット&ティアーズ

5月フリー

6月シカゴ

7月グランド・ファンク・レイルロード(後楽園球場)

8月ピンク・フロイド(箱根アフロディーテ)

9月レッド・ツェッペリン

9月UFO

 

友人や後輩の多くがこの中のいくつかのライヴの洗礼を受け

その衝撃が業界に進むキッカケとなったという。

大学4年生だった私は

BS&T、シカゴ、ピンク・フロイド、ツェッペリンを見て

見たかったグランド・ファンク・レイルロードは

TBSラジオのバイトが休めなくてパスしている。

 

しかし、ツェッペリンは凄かった。

LPで聴いていた「ロック」をナマで体験して「これだ!」と思ったものだ。

箱根のピンク・フロイドも良かったけど、それより「密室の大音響」にやられた。

加えてあの当時のロバート・プラントジミー・ペイジのビジュアル、

ライオンのような美しい長髪がロック・ミュージシャンとして無敵だった。

 

 

ツェッペリンの武道館で「ロックは見た目だ」と確信した。

どうやら私は業界に入る前からミュージック・ライフの

カラーグラビア的価値観の男だったみたいだ。

 

1971年というのは年表を見てみると、

ちょうどレッド・ツェッペリンの来日直前に

成田空港の用地強制執行反対の三里塚闘争の中で

警官が3人殉職している。

私は大学の授業がないので早朝ボウリングなんかやってた。

「さわやか律子さん」のボウリング・ブームだ。

江夏がオールスター戦で9連続三振を奪った。  

映画は「8月の濡れた砂」

TVでは NHKTVが全番組をカラー化。

「スター誕生」で森昌子が合格第一号。

GSのザ・タイガースが解散。  

「私の城下町」「17才」「よこはま・たそがれ」

「また逢う日まで」などがヒット。  

前橋のイメージを圧倒的に悪くした連続殺人犯

大久保清が逮捕されたのもこの年だった。

 

 

ツェッペリン初来日のライブは覚えているが

その時期、自分の就職が決まっていたかどうかは覚えていない。

夏休み前から始まっていた就活は(この頃の就活は4年生だった)

成績が悪いため第一志望のTBSへの学校推薦がもらえず、

つまり受験もできず、キング・レコードとCBSソニーへ

願書を出した頃だったかと思う。

 

ロックの象徴としての髪の毛を長くはしていたものの

フォークソングや学生運動の活動家に見られないよう

お金もないのに美容院でパーマをかけていたから

就職試験の願書の写真は学ランで髪を後ろにひっつめている。

それをこの間見つけて笑ったけど

人には恥ずかしくて見せられない黒歴史だ。

 

今日はこれしかないな。

1971年のレッド・ツェッペリン武道館のオープニング曲。

それはそれは、それはそれは、本当に衝撃だった

「移民の歌」

 

https://www.youtube.com/watch?v=RlNhD0oS5pk 

 

シンコーのムック本、パラパラとめくってみたい気はする。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2743


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>