歴史は勉強のように表面をなぞるだけでなく
裏側をちょっと覗くともっと楽しむことができる。
歴史という地図アプリのプラス⊕を押して
軽くズームするだけで面白いシーンが見えてくる。
それも人それぞれの視点によって違うシーンが。
1964年の出来事で、誰でも言うのは東京オリンピックだろう。
でも、あれに国交正常化前の中国は参加していない、
どころか大会中に初の核実験をやったなんてあまり語られない。
ビートルズの日本デビューも気にかけていたのはクラスで数人で、
前に書いたようにアイドルとしてはビートルズと同じ2月デビューの
西郷輝彦の方が圧倒的に人気があった
前年にデビューしていた舟木一夫、三田明と西郷輝彦で
<青春歌謡ブーム>は絶頂期に入ることになる。
この後も、安達明「潮風を待つ少女」、久保浩「霧の中の少女」など
続々と似たような歌で新人がデビューしてくる。
(高橋裕二さんは否定するのだが「木枯らしの少女」という邦題は
このあたりの無意識な記憶が深層にあるのではないかと私は思う)
この時代、売れるとなったらアイドルは毎月シングルを出した。
ビートルズも3月に「プリーズプリーズ・ミー」4月に「シーラブスユー」
「キャント・バイ・ミー・ラブ」「フロム・ミー・トゥー・ユー」と
立て続けにシングルを発売した。
西郷輝彦は「君だけを」から2ヵ月ごとに「チャペルに続く白い道」
「星空のあいつ」「17才のこの胸に」。
三田明は3月「友よ歌おう」4月「若い港」5月「ごめんねチコちゃん」
(橋幸夫の「恋をするなら」などのリズム歌謡シリーズは夏からだ)
そして今日の本題、舟木一夫だ。
舟木一夫は1月の「ああ青春の胸の血は」のヒットの後
3月に2枚のシングルを発売している。
「君たちがいて僕がいた」と「涙の敗戦投手」
「君たちがいて僕がいた」に比べると「涙の敗戦投手」は
ファン以外にはそれほど有名な曲ではない。
なぜ2枚のシングルを同時発売したのか・・
その事情はわからないが
発売日の直後の3月28日から甲子園で始まった
春の選抜高校野球大会にヒントはありそうだ。
お茶の間で盛り上がっていた高校野球、
舟木学園ソングの終盤をそれで締めようとしたのかもしれない。
ちなみにこの春の大会の優勝校は徳島海南高校。
エースは尾崎将司、後のジャンボ尾崎だ。
この歌は敗戦投手を歌っているのだから
尾崎ただ一人がこの歌に当てはまらなかったことになる。
面白いなあ。
この年の入場行進曲は「こんにちわ赤ちゃん」
毎日朝早くから中継の高校野球を見ていて思い出した。
1964年の「涙の敗戦投手」舟木一夫
作詞は「高校三年生」と同じ丘灯至夫
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ピーターとゴードン、サーチャーズ、ハニカムズ、アニマルズ、
スウィンギング・ブージーンズなんて「なんだ?それ」の時代。
高校野球に比べてマイナーな存在だった洋楽の1964年については
ぱくちゃんが8月31日の「パイレーツロック」で話してくれる。
ロックンロール以外では松島アキラの大ファンであるぱくちゃんも
さすがに舟木一夫の「涙の敗戦投手」は知らなかった。