思い出深い写真が出てきた。
1977年、ニューヨークのビルの屋上。
ここはジャニス・イアンのアルバム「奇跡の街」の
ジャケットが撮影された場所で、私もそのつもりで写っている。
カメラマンのピーター・カニンガムに会った時のものだから
ここは彼のアパートの屋上だったかもしれないし
シャッターを押してくれたのも彼だったかもしれない。
覚えていない。
ピーター・カニンガムは初期のブルース・スプリングスティーンや
マドンナの宣材を撮ったカメラマンとしても知られるが
私にとってはジャニス・イアンの元パートナーで
「天才少女」だった頃からずっと彼女を撮り続けたカメラマンだった。
今日はジャニス・イアンとエアロスミスの発売とプロモーションが
日本では並行して進んでいたことを書いてみたい。
ジャニス・イアンのアメリカCBSでのアルバム発売はこうで、
「スターズ(ジャニスの私小説)」(1974年)
「愛の回想録」(1975年)
「愛の余韻」(1976年)
「奇跡の街」(1977年)
一方のエアロスミスはこうなっている
「野獣生誕」(1973年)
「飛べ!エアロスミス」(1974年)
「闇夜のヘヴィ・ロック」(1975年)
「ロックス」(1976年)
「ドロー・ザ・ライン」(1977年)
それを日本の時系列で並べるとこうなる。
(数字はオリジナル順)
★1975年★
5月「飛べ!エアロスミス」②
7月「闇夜のヘヴィ・ロック」③
9月「愛の回想録」②
担当ディレクターがおらず、ファーストの発売が見送られていた中、
エアロスミスとジャニス・イアンの担当者になって
とりあえず低イニシャルながら直近のセカンドから発売を開始した年。
★1976年★
1月「野獣生誕」①
1月「スターズ(ジャニスの私小説)」①
3月「愛の余韻」③
7月「ロックス」④
7月TVドラマ「グッドバイ・ママ」
ひと目見ただけで明らかなのは未発売だったファーストを「つなぎ」で発売していること。
しかも共に1月の同じ発売日ということは
「今年はこれで行きます」の宣言でもあった。
ジャニス「愛の余韻」はドラマ 「グッドバイ・ママ」の影響でオリコン1位
エアロスミスも初期のこの傑作「ロックス」で人気が爆発する。
★1977年★
1月 エアロスミス初来日
3月「奇跡の街」④
6月 TVドラマ「岸辺のアルバム」
8月「ジャニスの部屋(ベスト盤)」
9月 ジャニス・イアン初来日
12月「ドロー・ザ・ライン」⑤
エアロスミスもジャニス・イアンも初来日。
エアロはライブ・イン・ジャパンを拒否のため録音できず、
ジャニスは収録して翌78年2月の「追想の扉(ライブ・イン・ジャパン)」なる。
ロックとシンガー・ソングライターの違いがあるから
イメージングやコピーや邦題や攻めるメディアなどは重ならないが
私の中での売り方の大元は同じで、リリースの順番も似ている。
ひとまず日本化は成功だったと自分でも思う。
ただ、セールスの差は歴然としていて、
この時点でエアロスミスのLP10万枚に対しジャニスは100万枚に迫っていた。
しかしこれ以降は私にもうアイデアがなかったのと、
アーティストの作品自体も徐々に衰えを見せていたことで
売り上げは下降時期に入り、
さらに私が1978年のEPICソニー設立のために異動になって
CBSソニーを離れたことなどから二組としばし別れることになる。
今日はジャニス・イアンの「我が心のジェシー」を聴きたい。
エアロスミスを担当したいと思ったキッカケが「ドリーム・オン」
ジャニス・イアンを担当するキッカケになったのがこの曲だった。
「我が心のジェシー」ジャニス・イアン
https://www.youtube.com/watch?
この曲について話すと必ず「ロバータ・フラックの・・」と口を挟む人がいる。
この曲はジャニス・イアンの曲であって二人の曲の解釈は全く違う。
なのでそういう人の物言いは聞こえないふりして無視することにしている。
まあ、ジャニス・イアンとエアロスミス
全く異なる2つのアーティストを同時に担当して宣伝できたのは
私が双子座だからかもしれない、なんてしょーもない結論で終える。