「ジャーニー」がロス・ヴァロリー(B)と
スティーヴ・スミス(Ds)を解雇し、訴えたのニュース。
ここで「ジャーニー」というのは
ニール・ショーンとジョナサン・ケインのこと。
彼らの事務所ナイトメアの役員でもある
ニール・ショーンとジョナサン・ケインを追い落として
ロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスが取って代わろうと
株主と陰謀をめぐらしていたと、
まるでどこかの企業の社内クーデターみたいなものらしい。
なんだか、これこそまさに産業ロックじゃん。
私はまだ売れていない頃のジャーニーを1枚発売している。
2枚めのアルバム「未来への招待状」 (1976年3月21日)
でもこのアルバムのために充分な仕事をしたとはいえない。
この時期はエアロスミスとジャニス・イアンにかかりきりだったから
新人A&Rが3つも4つも重要なプロダクトを担当するのは無理だった、
と言い訳する。
今から考えればメンバーはいいラインナップだ。
ニール・ショーン(G)、 ロス・ヴァロリー(B)、
グレッグ・ローリー(Key)、エインズレ-・ダンバー(Ds)
ある意味スーパーバンド、それでもアメリカでも売れなかった。
ジャーニーはその後スティーヴ・ペリーが加入し
「インフィニティ」(1978年)あたりから爆発的に売れるようになる。
「エヴォリューション」(1979年)、「ディパーチャー」(1980年)、
「エスケイプ」(1981年)「フロンティアーズ」(1983年)
この間にエインズレー・ダンバーが抜けてスティーヴ・スミスになり
グレッグ・ローリー脱退してジョナサン・ケインになる。
1979年4月に日本である出来事が起きる。
<ジャーニーとボストンが同時期に初来日>
ジャーニーは4月12日名古屋市公会堂、14日大阪厚生年金会館、
15日渋谷公会堂、16日東京厚生年金会館、18日渋谷公会堂。
一方のボストンは4月13・14日大阪府立体育館、16日福岡九電記念体育館、
18・19・20日日本武道館
つまり4月18日にこの2つの初来日バンドが
武道館と渋公で激突することになった。
結果はボストンが満員でジャーニーが閑散だったのだが
このことをずっと根に持っていたのが
当時ジャーニー他のCBSレーベルのプロモーション担当だった
喜久野さんで
その時のことを彼は自分のブログにこう書いている。
東京近郊のロックファン1万人は九段に集まっています。
渋谷公会堂ガラ空きです。この屈辱的な惨状は、私もよく覚えています。
(中略)
これが伝説の”ガラガラだけど演奏はすごかった”事件です。
この屈辱がバンドにとって日本で絶対成功するぜ、
の合言葉になったのは間違いありません。
http://blog.livedoor.jp/skywalker1950/archives/24929655.html
この屈辱を胸に喜久野さんは翌年ジャーニー担当のA&Rとなって
一連の上記モンスターアルバムを担うことになる。
もう一つ世の中とはまったく関係ないことなのだが地味な裏側の秘話がある。
この来日の時のジャーニーの担当者は私の次の森下さんで
私が担当したボストンの前任者が森下さんだったという皮肉なネジレ。
1978年11月にEPICソニーができたことによる
ある意味、運命の小さなイタズラだった。
ではアルバム「未来への招待状」から
「サタデイ・ナイト」ジャーニー(1976年)
まるで別のバンドのようだ
https://www.youtube.com/watch?v=CmvP1hdYKNs
ちなみに「ジャーニー・グレイテスト・ヒッツ」は
ビルボード誌の今週3月7日付けアルバムチャートで81位。
605週間チャートされているらしい。
単純計算で12年間?ホントに?