訃報は裕二さんからのメールで知った。
安倍亮一さんは読売新聞文化部の名記者だった。
安倍さんのコンサート評が載る日は
どんな会議があろうとすぐにその記事を読んだ。
必ずかかってくる電話にどう感想を言うか考え準備した。
御礼だけではいけないのだ。
何故ならそれは安倍さんの「作品」だったから。
そしてそれはいつも気品ある美文だった。
安倍さんは記者になる前に既に作詞家だった。
作詞家<水島哲>としてのデビューは1958年、
安倍さんが早稲田理工学部の学生だった時の
平尾昌章「星はなんでも知っている」で、
以後「霧の摩周湖」他、数多くのヒット曲を生んだ。
裕二さんや私が「安倍さん」と呼ぶのに
上司の堤さんは必ず「先生」と呼んでいた。
堤さんのいたバンド「ザ・ランチャーズ」の
「真冬の帰り道」が<水島哲>作詞なのだ。
<水島哲=安倍さん>の詞には
「星」「月」「湖」「霧」「口づけ」がよく登場した。
「星」「月」「湖」「霧」「口づけ」がよく登場した。
「星はなんでも知っている」から
西郷輝彦「君だけを」「17才のこの胸に」
布施明「霧の摩周湖」「おもいで」などなど、
多くがロマンチックで甘酸っぱい恋の歌だった
実際はロマンチックと言うより個性的な方だった。
市ヶ谷の黒ビルに夜10時頃突然いらっしゃったりした。
退職される時
神楽坂で裕二さんと京ちゃんと3人でお祝いをした。
ベストだったかカーディガンだったかをプレゼントした。
涙を流さんばかりに喜んで頂いた。
涙を流さんばかりに喜んで頂いた。
それ以来ほとんどお会いすることはなかった。
今朝は追悼の気持ちでこれにする。
「君だけを」西郷輝彦のデビュー作1964年2月、
ビートルズの日本デビュー「抱きしめたい」と
ほとんど同時期の発売日だ。
ここにも「星」が出てくる
<ふたつ並んだあの星も>の「ふたつの星」が
水島哲さんと安倍亮一さんのことのように聴こえる。
水島哲さんと一緒に「安倍さん」は星になったんだ。
そのように・・・・
そのように・・・・