TBS「パック・イン・ミュージック」の同窓会イベントが
明日開催されるそうだ。
団塊の世代はラジオ深夜放送世代とも言われるけれど
私は聴取者というより仕事先としての記憶の方が強く、
宣伝マン時代の「パック・イン・ミュージック」は、
小島一慶、林義雄、宮内鎮雄、愛川欣也、吉田拓郎、
山本コータロー、ナチチャコなどがパーソナリティだった。
70年代、ヒット曲のほとんどは深夜放送から生まれていたので
レコード会社の宣伝マンは自分が担当したシングル盤を持って
LF、TBS、QRを毎日ぐるぐる回り
その日のエアプレイのお願いをするのが仕事だった。
その日のエアプレイのお願いをするのが仕事だった。
仕事はそれだけだから、勤務評価はそのシングルが
≪一週間に何回エアプレイされたか≫だった。
従って、競合するライバルは他のレコード会社だけでなく
同じ社内でも違う曲を担当した同僚はそうだった。
毎日何十人もの宣伝マンがラジオ局回りをしていた。
そういう中で知り合い仲良くなったOBたちが
今では「パイレーツロック」に出てくれているのだから
毎月同窓会をやっているようなものだ。
なので「パック・イン・ミュージック」同窓会は私には必要ない。
なので「パック・イン・ミュージック」同窓会は私には必要ない。
「パック・イン・ミュージック」の制作が綜合放送になった時、
ディレクターの人と人間関係を最初から築かねばならなくなって
何十人もの中から自分を早く覚えてもらうために一計を案じ
木の鈴を2つ腰につけて毎日通った。
そして「今晩かけて下さい、駄目なら明日かけて」とお願いした。
そのうちに「その鈴の音が聞こえるとゾッとするんで勘弁してよ」と
担当のKさんに言われようになり、もう覚えられたかなと外した。
Kさんにも「パイレーツロック」出演をお願いしてみよう。
<レコード会社で一番偉いのは社長じゃなくてディレクター>
という教育を受けていた。
宣伝マンはあくまで制作ディレクターのアシスタントだった。
ラジオでガンガンかかって売れたこの2曲も
という教育を受けていた。
宣伝マンはあくまで制作ディレクターのアシスタントだった。
ラジオでガンガンかかって売れたこの2曲も
決して私の手柄とは言えないが、
若かりし自分は頑張ってたと自負はしている。
若かりし自分は頑張ってたと自負はしている。
パック・イン・ミュージックでもよくかけてもらったものだ。
「愛の休日」ミッシェル・ポルナレフ
1972年、担当ディレクターは私の師匠、高久光雄さん。
「落ち葉のコンチェルト」アルバート・ハモンド
1973年、担当ディレクターは高橋裕二さん。
宣伝担当は私と、内田徹さん。
http://www.youtube.com/watch?v=uHxRH6exHt0
裕二さんお得意の「日本のみのシングル・カット」
しかも歌詞とまったく関係ない邦題、
まさに「日本洋楽」の典型といえる曲。
ただ私にとっても宣伝の仕掛けが制作の堤さんに認められ
翌年の春に念願のディレクターとして引かれることになるので
そんな意味で、個人的にも忘れられない曲だ。
裕二さんお得意の「日本のみのシングル・カット」
しかも歌詞とまったく関係ない邦題、
まさに「日本洋楽」の典型といえる曲。
ただ私にとっても宣伝の仕掛けが制作の堤さんに認められ
翌年の春に念願のディレクターとして引かれることになるので
そんな意味で、個人的にも忘れられない曲だ。