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Channel: レッツゴー!元日本洋楽研究会
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始まりは弘田三枝子だった

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最近は訃報が多すぎて

著名人の訃報にも滅多に心が動くことのない私も

昨日の弘田三枝子死去のニュースにはやられて

夜遅くまでベストアルバムを何回も聴いていた。

 

 

ビートルズが日本デビューする3~4年前のこと。

小学6年生から中学1年生の私に大きな影響を与えた一連の音楽があった。

漣健児訳詞による洋楽曲の日本語ポップス。

 

それが私の洋楽に足を踏み入れる一番最初のキッカケで

漣健児(=草野昌一)の日本語ポップスなかりせば、

ジーン・ピットニーもデル・シャノンもブライアン・ハイランドも

コニー・フランシスもヘレン・シャピロもリトル・ペギー・マーチも

知らずに通り過ぎていたかもしれないし、

草野さんはシンコー・ミュージックの専務で

ミュージックライフの初代編集長でもあったわけだから

私の洋楽人生も「日本洋楽」研究会のコンセプトも

全部「漣健児」からつながって続いていると言える。

 

そんな私なのでミュージックライフにモット・ザ・フープルで

原稿を書くことになった時、草野専務から「沖田豪」のペンネームを頂き

(あの漣健児から名前をもらっちゃった!)と

天にも昇る気持ちで帰社したのを覚えている。

そのくせその後の沖田豪は音楽専科に書くことが増えるんだけど。

 

漣健児の訳詞による歌には外国(=アメリカ)のニオイがした。

アメリカのTVドラマが吹き替えで日本語なのと同じように

アメリカの音楽が日本語であることに疑問はなかった。

その漣作品を歌っていた多くの日本人歌手の中で

特に私の記憶に強いのが飯田久彦と弘田三枝子だった。

 

弘田三枝子の「子供じゃないの」「悲しき片想い」「ヴァケイション」

「すてきな16才」「渚のデート」「悲しきハート」「リトル・ミス・ロンリー」

なんかを聴いて外国ってどんなところだろう?いつか行きたいと夢見ていたのが

裾野の長い赤城山の麓の、利根川のほとりの道を、

からっ風で鼻を赤くし、さすがに鼻水は垂らしていなかったけれど  

手にはあかぎれを作りながら中学校に通う私だった。

 

時は巡り、1980年代のアメリカ出張時(確かシカゴに向かう国内便で)

近くの座席に一人でいる弘田三枝子を見かけたことがある。

よっぽど(昔ファンでした)と声をかけようかと思ったりもしたが

さすがに「昔ファンでした」では失礼だからやめた。

 

全く面識のない弘田三枝子でも私にとっては大きな存在だった。

言ってしまえばブレンダ・リーより弘田三枝子だった。

昨日何回も聴いた弘田三枝子で好きなこの3曲

 

「悲しき片想い」(1961年)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=FaEpf77rIRE  

 

「カモン・ダンス」(1962年)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=qU7uMqiZHLA  

 

「シェーナ・シェーナ」(1962年)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=tVtMYO_59sk  

 


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