たとえば業界の人の手記やインタビュー記事など読んでいて
「あれ?その仕事ってあなたじゃなかったでしょ~」
と思う個所にぶつかることがある。
記憶がまだらになっての物忘れなのか勘違いか
想像したくないけど故意なのかわからない。
どうあれ昔の仲間に飲み会でネタにされるのは嫌なので
私も極力そういう「オレがやった」的な表現は
避けているつもりでいるのだが、もしあったら相当恥ずかしい。
私が実際に現場で担当していたのは有名どころでは
エアロスミス、ジャニス・イアン、チープ・トリック、
ジューダス・プリースト、クラッシュなど
80年代初頭までの約100組で、
クラッシュ以降は管理職の肩書が付いたから
発売契約、宣伝費決め、うるさい口出しとかしながら
特定のアーティストのエコひいきをする役だった。
だから、シェイキン・スティーヴンス、ミゲール・ボセ(石山さん)
フリオ・イグレシアス、ウィリー・ネルソン(シゲトちゃん)
ポイズン(眞澄さん)、GIオレンジ(野谷さん)、
ビースティ・ボーイズ(蒔田さん)なんかは
私の話によく登場しても担当は私じゃない。
2017年7月
渋谷のスペイン・バルで飲んだ面々は
バンド<スーパー・ジャンキー・モンキー>の
オーディション当時のスタッフだった。
1993年11月、
バンドはそのオーディション優勝者の副賞としての
「CMJミュージックマラソン」出演のためNYに渡った。
会場は今では伝説の「CBGB」
この時の話を2006年のブログに書いたら
それを最近佐藤剛さんが引用して2月にコラムに書いてくれた。
文章がうまいから感動ストーリーになってる。
http://www.tapthepop.net/extra
でもバンドを担当したのはシライさんだ。
物語のすべては彼の「すげーバンドがいます!」から始まったのだ。
(シライさんは写真左から2人目)
デスクのイイダちゃん以外のこのメンバーでNYに出張した。
ここにNY駐在員だった平井さんが加われば
CMJオーディション・プロジェクトの全員集合になる。
1995年までの2年間、アメリカでのバンド活動をサポートしたのは
平井さんだった。
平井さんは今では<世界のソニー>のCEOになっちまってる。
大経営者となった平井さんが
スーパージャンキー・モンキーの苦労話&思い出話をする時は
ミュージックマンの顔に戻ると、このプロジェクトでは渉外と通訳を
やってくれたフルサワさんが言う。
あれから24年
1999年にヴォーカルのMUTSUMIが亡くなり、
2006年に聖地「CBGB」も閉店した。
オリコン1位を狙うタイプの音楽ではなかったけれど
アメリカでの評価は高く、日本のシーンにも影響を与えた。
何より今でも語り継がれるようなバンドに
私は予算をつけただけだけど少しでも関われていたことが嬉しい。
スーパージャンキー・
野中が日本人バンドで最も愛したバンドだったし。
あはは、でも担当はシライさんだからね。
「We're The Mother」SUPER JUNKY MONKEY(1994年)